宝塚歌劇団

宝塚歌劇団の由来を、女歌舞伎とかから来たとばかり思っていました。

男性が女形までこなす歌舞伎に対抗して、女性が男装するという魅力もウケていたのかなと。

出雲阿国も女性ばかりの演芸でしたよね。

きっとそういうものから派生したのだろうと思い込んでいたのです。

しかし全く違うのだそうですね。

対抗したのは歌舞伎ではなく、少年音楽隊だったのです。

明治時代の末から大正にかけて、百貨店などはどんどんと少年音楽隊を作りました。

ハイカラの浸透のためと、宣伝や客寄せの意味合いもあったようです。

このような少年音楽隊のブームの中、「少年には少女で」と白木屋は少女音楽隊を作ります。

阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道の創始者である小林一三氏は、三越少年音楽隊やこの白木屋少女音楽隊に深く感銘を受けました。

1911年に設立した遊園地・宝塚新温泉の旅客誘致の企画として少女ばかりの「宝塚唱和隊」を1913年に組織したのです。

この遊園地の室内プールは殊の外不人気でした。

そこでこの室内プールを閉鎖して、劇場へと改築したのです。

その年の12月には「宝塚唱和隊」から「宝塚少女歌劇養成会」と名前を変えました。

ここでの待遇は、尋常小学校を卒業したばかりの少女たちに大卒者同等の高待遇を受けるというもの。

大変な注目を浴びました。

1914年の4月に初公演を行いました。

その4年後には東京公演を果たし、雑誌「歌劇」が創刊されるなど、急成長を遂げたのです。

この翌年に「宝塚少女歌劇養成会」から「宝塚少女歌劇団」と改称され、学校組織としてスタートさせました。

いまもこの形は受け継がれています。

その他の歌劇団

SKDやOSKといった少女ばかりの歌劇団はほかにもあり、人気はありました。

しかし1965年あたりから、娯楽の多様化に伴い、だんだんと廃れてゆきます。

宝塚歌劇団もそれは同じでした。

南海とともに阪急の御荷物と揶揄されたりしたものです。

それを救ったのは「ベルサイユのばら」でした。

ベルサイユのばらの公演により、新たなファンを掴んだのです。

そしてそれに続くスターシステムの確立により、長期的なファンの囲い込みにも成功しました。

SKDとOSKは生き残ることはできませんでしたが、宝塚歌劇団は息を吹き返したのです。

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